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2011.04.03

原子力事故

福島の原子力発電所の事故はいまだに終息が見えない状況です。

原子力関連の事故について過去にどのようなものがあったのか、wikipediaにまとめがありましたので転載します。

 

福島原発関連

1978年11月2日 東京電力福島第一原子力発電所3号機事故

日本初の臨界事故とされる。

戻り弁の操作ミスで制御棒5本が抜け、午前3時から、出勤してきた副長が気付きゆっくり修正し終わる10時半までの7時間半臨界が続いたとされる。

沸騰水型の原子炉で、弁操作の誤りで炉内圧力が高まり、制御棒が抜けるという本質的な弱点の事故。この情報は発電所内でも共有されず、同発電所でもその後繰り返され、他の原発でも(合計少なくとも6件)繰り返される。1999年志賀原発事故も防げたかも知れず、本質的な弱点なので、世界中の原子炉で起こっている可能性がある。

特に重要なのが、1991年5月31日の中部電力浜岡3号機の制御棒が同様に3本抜けた事故である。中部電力は1992年にマニュアルを改訂した。「国への報告はしなかったが、他電力へ報告した。」と主張した。

事故発生から29年後の2007年3月22日に発覚、公表された。東京電力は「当時は報告義務がなかった」と主張している。

 

1989年1月1日 東京電力福島第二原子力発電所3号機事故

原子炉再循環ポンプ内部が壊れ、炉心に多量の金属粉が流出した事故。レベル2。

 

1990年9月9日 東京電力福島第一原子力発電所3号機事故

主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果、原子炉圧力が上昇して「中性子束高」の信号により自動停止した。レベル2。

 

1998年2月22日福島第一原子力発電所

第4号機の定期検査中、137本の制御棒のうちの34本が50分間、全体の25分の1(1ノッチ約15cm)抜けた。

 

日本国内

1999年9月30日 東海村JCO核燃料加工施設臨界事故

日本で3番目の臨界事故で、作業員2名が死亡。レベル4。

 

1991年2月9日 関西電力美浜発電所2号機事故

蒸気発生器の伝熱管の1本が破断し、非常用炉心冷却装置(ECCS)が作動した。レベル2。

いわゆる「ギロチン裁断」問題。加圧水型原子炉(PWR)特有の弱点である。

この問題はマスコミによって連日繰り返しオーバーに伝えられ、あたかもPWRがBWRに比べて危険な存在であるかのように印象付けた。その後も、制御棒の挿入方法や、日本特有の条件などを無視して、前述のスリーマイル島原子力発電所事故(日本のPWRはウェスティングハウス系なので本来TMI事故の原因とは無関係)とあわせ、「PWRはBWRより反応余裕度が少なく、ギロチン裁断の問題もあって危険」と断じる評論家が多い。

 

1991年4月4日 中部電力浜岡原子力発電所3号機事故

誤信号により原子炉給水量が減少し、原子炉が自動停止した。レベル2。

 

1997年3月11日 動力炉・核燃料開発事業団東海再処理施設アスファルト固化施設火災爆発事故

低レベル放射性物質をアスファルト固化する施設で火災発生、爆発。レベル3。

 

1999年6月18日 北陸電力志賀原子力発電所1号機事故

定期点検中に沸騰水型原子炉(BWR)の弁操作の誤りで炉内の圧力が上昇し3本の制御棒が抜け、想定外で無制御臨界になり、スクラム信号が出たが、制御棒を挿入できず、手動で弁を操作するまで臨界が15分間続いた。点検前にスクラム用の窒素を全ての弁で抜いてあったというミスと、マニュアルで弁操作が開閉逆だったと言うのが、臨界になる主な原因であった。

所長も参加する所内幹部会議で隠蔽が決定され、運転日誌への記載も、本社への報告も無かったとされる。当時の所長代理は、発覚時点で常務・原子力推進本部副本部長=安全担当、志賀原発担当。総点検の聞き取りに対しては事故を報告しなかった。

原発関連の不祥事続発に伴う2006年11月の保安院指示による社内総点検中、報告が出た結果、2007年3月公表に至った。レベル1-3

日本で2番目の臨界事故とされる。

日本原子力技術協会が、最悪の事態を想定して欠落データを補完した研究によると、定格出力の15%まで出力が瞬間的に急上昇した即発臨界であった可能性がある。ただし、燃料中のウラン238が中性子を吸収し、それ以上の事態になる可能性はなかったという。

この事故に関して、一部マスコミ等で「制御棒が落下した」「沸騰水型原子炉の制御棒は下から挿入されるので、水圧が抜けると落下する危険がある」との誤解があったが、実際は「水圧装置の誤作動により、引き抜き動作が行われた」であり、重力の影響で落下したのでないことに注意が必要である。

 

1973年3月 美浜原子力発電所燃料棒破損

美浜一号炉において核燃料棒が折損する事故が発生したが、関西電力はこの事故を公表せず秘匿していた。この事故が明らかになったのは内部告発によるものである。

 

1974年9月1日 原子力船「むつ」の放射線漏れ事故

1995年12月8日 動力炉・核燃料開発事業団高速増殖炉もんじゅナトリウム漏洩事故

2次主冷却系の温度計の鞘が折れ、ナトリウムが漏洩し燃焼した。レベル1。この事故により、もんじゅは15年近く経った2010年4月まで停止を余儀なくされた。

 

2004年8月9日 関西電力美浜発電所3号機2次系配管破損事故

2次冷却系のタービン発電機付近の配管破損により高温高圧の水蒸気が多量に噴出。逃げ遅れた作業員5名が熱傷で死亡。レベル0+。

 

2007年7月16日 新潟県中越沖地震に伴う東京電力柏崎刈羽原子力発電所での一連の事故

同日発生した新潟県中越沖地震により、外部電源用の油冷式変圧器が火災を起し、微量の放射性物質の漏洩が検出された。この地震により発生した火災は柏崎刈羽原子力発電所一カ所のみであるとされる。

震災後の高波によって敷地内が冠水、このため使用済み燃料棒プールの冷却水が一部流失している。

全ての被害の詳細は2007年10月現在もなお調査中である。この事故により柏崎刈羽原子力発電所は全面停止を余儀なくされた。

2007年11月13日、経済産業省原子力安全・保安院はこの事故をレベル0-と評価した。

 

日本国外

1957年9月29日 ウラル核惨事

ソビエト連邦ウラル地方カスリ市の北100kmにあるクイツシム町にある「チェリヤビンスク65」という暗号名を持つ秘密都市の「マヤーク」(灯台の意味)という兵器(原子爆弾)用プルトニウムを生産するための原子炉5基および再処理施設を持つプラントで起こった事故。プルトニウムを含む200万キュリーの放射性物質が飛散した。放射性物質の大量貯蔵に伴う事故の危険性を知らせた事故である。

当初この事故は極秘とされていたが、西側に亡命した科学者であるジョレス・A・メドベージェフが1976年に英科学誌「ニュー・サイエンティスト」に論文を掲載したことで知られるようになった。

 

1957年10月10日 ウィンズケール火災事故

世界初の原子炉重大事故。イギリス北西部の軍事用プルトニウムを生産するウィンズケイル原子力工場(現セラフィールド)の原子炉2基の炉心で黒鉛(炭素製)減速材の過熱により火災が発生、16時間燃え続け多量の放射性物質を外部に放出した。避難命令が出なかったため、地元住民は一生許容線量の10倍の放射線を受け、数十人がその後白血病で死亡した。現在の所白血病発生率は全国平均の3倍である。当時のマクミラン政権が極秘にしていたが、30年後に公開された。現在でも危険な状態にある。2万キュリーのヨウ素131が工場周辺500平方キロメートルを汚染し、ヨードの危険性を知らせたことで有名である。水蒸気爆発のおそれから注水に手間取った。これはスリーマイル島でも繰り返された。

 

1961年1月3日 SL-1事故

事故後、撤去されるSL-1の原子炉容器SL-1 (Stationary Low-Power Reactor Number One) はアメリカのアイダホフォールズにあった海軍の軍事用の試験炉である。運転出力は軍事基地のための暖房としての熱エネルギーとして400 kW、電気出力として200 kWの合計600 kWであり、設計出力は3 MWであった。当事者が死亡してしまったため事故の原因ははっきりとは分かっていないが、制御棒を運転員が誤って引き抜き、原子炉の暴走が起きたと考えられている。この暴走により、13トンの原子炉容器が1メートル近く飛び上がった。事故で放出されたエネルギーは約50 MJに相当し、炉内にあった約100万キュリーの核分裂生成物のうち約1パーセントが放出されたと考えられている。

なお原子炉は暴走したものの、その後減速材である軽水が失われたため自然に停止したと考えられている。また、冷却材が失われても炉心が溶融しなかったのは、炉の出力が小さかったためとも考えられる。

事故が起きたのは午後9時であり、当時夜勤で3人の運転員がいたが2人は即死であったと考えられる。事故発生後に救出隊が駆けつけたときは放射線の強さが非常に強く、1時間半は現場に近づく事さえできなかった。現場に入ると制御室には2人がおり、その内の2人がまだ生きていて救急車で搬送されたが、搬送中に死亡した。事故から数日後に残りの1人が原子炉の暴走により飛び出した制御棒に胸を貫かれ、天井に貼り付けにされた状態で発見された。

三人の遺体は、露出していた頭部や手などが余りにも汚染度が激しかったため、切断して高レベル放射性廃棄物として処理しなければならなくなった。搬送に使用した救急車も放射能に汚染されてしまったために、後に放射性廃棄物として処分しなければならなくなった。

チェルノブイリ原子力発電所事故が起きるまでは原子炉で死者が出た唯一の事故として知られていた。

 

1963年10月フランスのサン・ローラン・デ・ゾー原子炉で燃料溶融事故

 

1966年10月5日 エンリコ・フェルミ1号炉

エンリコ・フェルミ炉はアメリカのデトロイト郊外にあった高速増殖炉試験炉である。1966年10月5日に炉心溶融を起こし閉鎖された。原子炉の炉心溶融事故が実際に発生した最初の例とされている。後にこの事故について書かれたドキュメンタリーのタイトルには、『我々はデトロイトを失うところであった』と書かれた。

 

1979年3月28日 スリーマイル島原子力発電所事故

アメリカ・スリーマイル島原子力発電所の炉心溶融事故。レベル5の事故であり、不完全な設備保全、人間工学を重視していない制御盤配置、そして中央制御室運転員の誤判断等が重なって発生した。当初は外部へ放射性物質が大量に放出されたとの報道もあった。この事故の影響により、アメリカ政府は新規原発建設中止に追い込まれた。アメリカではこの事故を契機にトラブルや運転等の情報を共有する組織としてアメリカ合衆国原子力規制委員会 (INPO) が結成され、その後の原子力発電所の安全性向上に寄与することとなった。

 

1986年4月26日 チェルノブイリ原子力発電所事故

ウクライナ共和国チェルノブイリ原発4号機が爆発・炎上し、多量の放射性物質が大気中に放出されたレベル7の深刻重大な事件。事実上、史上最悪の原子力事故である。無許可での発電実験中、安全装置を切り制御棒をほとんど引き抜いたために出力が急上昇して起こったとされている。放射性物質は気流に乗って世界規模で被曝をもたらした。直接の死亡者は作業員・救助隊員の数十名だけであるが、がんなどの疾病を含めると、数万から数十万にのぼるとされていた。2005年に発表された世界保健機関 (WHO) 等の複数組織による国際共同調査結果では、この事故による直接的な死者は最終的に9,000人との評価もある。2000年4月26日に行われた14周年追悼式典では事故処理に従事した作業員85万人のうち、5万5千人が死亡したと発表されており、WHOの評価とは大きく食い違っている。この事故を契機に国際的な原子力情報交換の重要性が認識され、世界原子力発電事業者協会 (WANO) が結成された。

 

1973年11月、バーモントヤンキー原発(米バーモント州)

検査のため抜いた状態だった制御棒の隣の制御棒を誤って抜き、炉心の一部が臨界。圧力容器と格納容器のふたは開けたままだった。

 

1976年11月、ミルストン原発1号機(米コネティカット州)

臨界は炉心スクラムで止まった。

 

1987年7月オスカーシャム原発3号機(スウェーデン)

制御棒の効果を調べる試験中に制御棒を抜いていたところ想定外の臨界状態になったが、運転員が気付くのが遅れ、臨界状態が続いた。

 

1987年9月、ゴイアニア被曝事故

ブラジルのゴイアニア市で発生した放射能汚染事故。閉鎖された病院に放置されていた放射線療法用の医療機器から放射線源が盗難に遭い、地元のスクラップ業者によって解体された事で内部のセシウム137が露出。暗闇で光るという特性に好奇心を持った人々が自宅に持ち帰るなどした事で、貧民街を中心に汚染が広がった。同年の12月までに250人が被曝し、4人が急性放射線障害で死亡した。翌年の3月までに汚染がひどかった家屋7軒が解体され、周辺の土壌交換などが行われた。

 

2008年7月7日、トリカスタン原子力発電所事故

7日の夜から8日にかけて、フランス・アヴィニョン北部ボレーヌ市に接するトリカスタン原発において、ウラン溶液貯蔵タンクのメンテナンス中、 タンクからウラン溶液約3万リットルが溢れ出し、職員100人余が被曝し、付近の河川に74 kgのウラニウムが流れ出した。原発は一時閉鎖され、水道水の使用や河川への立ち入りが禁止されるなどした。フランス原子力安全庁は事故レベルを0としている。

 

 

軍事用の原子力事故を除きましたが、国内、国外問わずかなりの事故がありました。

資源の無い国としては原子力発電は安価で安定的に電力を供給できる魅力があるのですが、完全に人類の手で制御できるかと考えるとやや心配です。

少なくとも現在稼働中の原子力発電所の耐震と津波対策は十分に行って欲しいものです。